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2018.01.01

8.工藤幸雄「ポーランドの魅力」

 

 

ポーランド外国投資公社(PAIZ)

これは田口研究室が管理するPAIZ紹介のページです

 


 

 

ポーランドの魅力

 

 意外性がその魅力のひとつだ。
 ワルシャワでもクラクフでもよい。ホテルを出て初めてタクシーに乗り込む。運転手に「どこ」と訊かれ、「あっ、なぜ日本語なんだ」と肝を潰したら、その瞬間からあなたはポーランド・ファンとなる可能性が大きい。ポーランド語を知っても知らなくても、どうしても日本人の耳には「どこ」と聞こえる。あいさつではなく、日本語と寸分違わぬ意味なのだ。別の訊ね方もあるから、この「どこ」に当たったら、幸運というべきか。実は筆者もこれに当てられた(ほんとは「どこん」と発音されているのだが)。そのあと、日本のことを根ほり葉ほり聞き出そうとする運転手もいるはずだが、これは会話ができればのこととなる(筆者が七年間、日本語を教えたワルシャワ大学で日本語教育のはじまったのは実に大正の十年代と七〇年以上の昔だ。日本側の後れと比較を絶する)。
 アップルマークのついたコンピューターのキーでこれを叩き出しているのだが、その世界的に有名なブランドの創始者のひとりの名がヴォズニャックという。ポーランド系なのだ。こんにち世界中でテレビ撮影にも映画製作にも欠かせない映像と音響の同時記録用の機械を「ナグラ」という。発明者がポーランド人なのに知る人はまずない。「ナグラ」とは英語の「プレイ」に近い意味のポーランド語から採った。ただし、発明者には不本意ながらスイス製、旧体制は外貨獲得の好機を失った。ジョゼフ・コンラッドの名で知られた英国の小説家(元船員)ほどの有名人でなくとも、意外な人たちにポーランド出身はまだまだ少なくない。

 

 愛国心には頭が下がる。敗戦国の日本人(少なくとも筆者の場合)は、いまだに世界に顔向けできず、遠慮がある。ましてポーランドをひどい目に遭わせたドイツと手を結んだ負い目もある。が、ポーランド人の前では気にしないことだ。何しろ、もっと昔、憎い大国ロシア帝国を負かし、ポーランド語教育が公然と許されるチャンスを与た恩人は日本だから(東郷や乃木の名が欧州の小国に衝撃を与えたことをわれわれは忘れていても)。数え切れぬほど悲運を嘗めてきた国なのだが、卑屈でもなければ、陰険でもない。却って潔く、明朗闊達である。車の往来するワルシャワの通りで、「済みません、手を引いてくれますか」とお年寄りから頼まれたことがある。そんな街はめったにあると思えない。そんな優しさと愛国心の固まりが「共産主義」を揺すぶり、引き倒した。挫けてたまるか、負けてなるものか。その意地が体制打倒に巨大な力を発揮した。

 

 ユーモア。屈折した、またはあっけらかんとした笑い。小話、風刺、まんが、文学と言わず、ふだんの会話のやりとりにもふんわかとしたユーモアの香りが漂う。それが批判精神あるいは負けじ魂と裏腹のポーランド人の持ち味である。「兄弟国? まぁね、兄弟は選ぶわけに行かないもの」。独立を失った長すぎる年月(戦後のソ連式体制もそのなかに入る)、彼らを支えてきたのが、この反骨なのだ。正義と勇気を重んずる。が、決して無愛想ではない。ありがとう(ジエンクーエ)、どうぞ(プロシェン)はどこでも聞かれる。礼儀正しい。勇猛果敢、強気ではあるが感傷も持ち合わせることは歌の調べから知られる。伝統と教養と詩を尊重し、半面、お洒落好きは貴族趣味に通じる。

 

 実はこちこちの「共産圏」のなかでもポーランドほどの<軟構造>はなかった。スターリン時代を脱したとたんに農業も商業も小規模工業もなしくずしに私営が許された。消長はあっても、つねに寛容と自由の精神が保たれた。「共産主義」の優等生であったことがない。そこで、まだしもサービス、笑顔、金儲けが消滅せずに済んだ。だから、市場経済に対するとまどいはない。いまや商店は花盛り。その経営者のなかにはあぶれた元闇ドル買いがいても不思議はない。かと言って、世渡り上手のちゃっかり者は嫌われる。

 

 美酒・美姫の土地柄でもある。生ぬるく、ときには濁ったまま店で出されたかつての国営ビールに代わって、さまざまな銘柄のビールが販路拡大を各地で競う。ウォツカも同様である。「ロシア製とは違う、本場はこっちさ」のお国自慢がある(冷凍庫で冷やして呑む)。
 ヨーロッパで美女と言えばパリとくるが、そのリドなどの高級キャバレーの売れっ子たちの本名が判明してみると、揃いも揃ってポーランド娘だった==とはポリティカ(政治)というお堅い週刊紙のコラムに載った記事の受け売りだ。70年代の始めのことだ。彼女らに負けぬポーランド女性を深く愛した人にナポレオンがあり、作家のバルザックがいた。
 味で売る競争はレストラン、ピザ屋、ソーセージ、ハム、タバコ等々と広がる。品質や能率の向上は、当然、常識である。こうしてテレビを含むマスコミ上の宣伝(これも社会主義当時から細々とあった)が勢いづけば、街頭の大ポスター合戦やら電車の<車体広告>はデザインも含めて東京の先を行く。日本企業も負けじと進出しているが、ある製品名の大ネオンサインは元共産党総本部の頂上に輝く。その建物は株式市場に早変わりした。

 

 ワルシャワと限らず、旧体制時代の新町名はすべて帳消しとなった。左翼運動の旧英雄らが追放となり、代わって、例えば、日本の大百科にさえなかった反ロシアの将軍の名やローマ教皇の名が付き、「連帯」通りが生まれた。もともと「聖ヤン」通り、「聖十字架」通りなど戦前からの名称が大手を振り、宗教色一掃は実現に遠かった。ヨハネ・パウロ二世選出の78年、たまたまわが家にいた技師は「ポーランドの歴史上、こんなに嬉しくめでたい知らせはない」と涙声になった。世界中に散らばったポーランド人も同じ思いであったろう。

 

 あれからほぼ20年が過ぎる。そして21世紀が目の前に来た。前を見つめて進む人々にとって国民総決起の「連帯」運動はもはや過去の物語にすぎない。国章の白鷲、赤と白の国旗、そして「ポーランド、未だ滅びず、われら生きてある限り……..」と歌う国歌、そのどれも大昔から変わっていない。旧「東欧圏」にそんな国は唯一である。68年の全国的な反体制の学生運動にも「連帯」の闘いにも、その旗が振られ、その歌が高らかに歌われた。「第三共和国」ポーランドは新アジア諸国並みに発展のエネルギーに満ちる。

 

 昨年のノーベル賞詩人シンボルスカが彼女の好みをこう謳っている-

 

 「大地なら制服でない姿が好き
   亡国のほうが滅ぼそうとする
       国よりも好き….」
                   と。

 

 その亡国が再び繰り返されることはない。
 ポーランド人は自分たちの力で勝ち取った幸せを空しくする人々では決してないのだから。

 

(工藤幸雄)

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