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2018.01.01

9.小山哲「ポーランドの地理と歴史」

ポーランドの地理と歴史

 

 このページを読まれる方は、ポーランドという国がヨーロッパのどの辺にあるかは、きっともうご存じだろう。「ポーランド共和国」は東ヨーロッパ北部に位置し、西が狭く、東が広い台形のかたちをした国である。北はバルト海に臨み、西はオドラ(オーデル)川とニサ(ナイセ)川、南はスデティ(ズデーテン)山脈からカルパティア山脈に連なる山並みに囲まれている。南のチェコとスロヴァキアとの国境沿いを除けば、ほとんど高い山はない。面積は約31万k㎡、日本の国土から九州と四国を除いたくらい。首都ワルシャワの緯度は北緯52度だから、日本の近くでいえばカムチャッカ半島の先端あたりということになるが、気候は表にみるように、高緯度のわりにそれほど厳しくない。冬は寒いときには-15℃ぐらいまで気温が下がるが、そんな日が何ヵ月も続くわけではなく、たいていは-5~+5℃あたりを上下している。冬の間は厚い雲に閉ざされた日が多いが、雪はそれほど積もらない。暖房設備がしっかり整っているので、氷点下の日でも建物の中はいつも暖かい。冬が長い分、春の訪れは感動的で、街中がたちまち鮮やかな緑に包まれ、色とりどりの花々が一斉に咲き出す。夏は暑い日には30℃を越えるが、湿度が低いので爽やかで過ごしやすい。秋は木々の葉が黄色に染まり、「黄金の秋」と呼ばれる。

 

 この国には現在、約3、800万人の人々が住んでいる(首都ワルシャワの人口は165万人)。言語はポーランド語、宗教はカトリックが9割を占める。今日のポーランドはほぼ単一民族国家といってよいが、これは、以下に述べるように、ポーランドの一千年に及ぶ歴史の中ではむしろ例外的なことである。
 「ポーランド」(ポーランド語では「ポルスカ」)という国名は、「ポーレ」(平野、耕地)という語に由来し、「平原の国」を意味する。しかし、名前に反してこの国のたどった歴史は実に山あり谷ありで、劇的な起伏に富んでいる。

 

 ポーランド人は、チェコ人やスロヴァキア人と並んで、「西スラヴ人」に属する。今日のポーランドの地に西スラヴ人が定住していたことがはっきり確認できるのは紀元後6世紀から7世紀のことである。もちろんそれ以前にも人は住んでおり、紀元前13-4世紀にかけては「ラウジッツ文化」と呼ばれる独自の文化を築いていたのだが、どのような民族系統の人たちなのかよくわかっていない。9世紀頃から西スラヴ人の一派であるポラーニェ族が台頭し、やがてピャスト家を中心に周辺の部族を統合して統一国家を形成した。これがポーランド国家の起源である。ピャスト家のミェシコ一世は966年、キリスト教に改宗し(「ポーランドの洗礼」と呼ばれる)、1000年にはグニェズノに大司教座が設置された。このときポーランドがローマ・カトリックを受け入れたことは、その後の歴史にとって大きな意味を持った。第一に、これで西隣の神聖ローマ帝国はキリスト教布教を理由にポーランドに介入することができなくなり、ポーランドは国家の独立を確保することができた。第二に、ポーランドは、東隣のロシアと違って、ラテン文化圏の中に位置することになった。

 

 ミェシコ一世の子ボレスワフ一世フロブリの時代にピァスト朝国家は一時キエフを占領するほどの勢いを示すが、12世紀前半から王家内部の対立によっていくつかの侯国に分裂した。その間に13世紀頃からドイツ人の東方植民が始まり、1230年にはヴィスワ川下流域にドイツ騎士団が入植した。バルト海への出口をふさぐ格好でドイツ人の国家が成立したことは、ポーランドとその東隣のリトアニアの将来にとって、重大な意味を持つことになった。1241年に東からモンゴル軍が侵入し、レグニツァ(ワールシュタット)でポーランド軍が大敗を喫したのも、この分裂時代のことである。ようやく14世紀前半、ヴワディスワフ二世ウォキェテクとその子カジミェシュ大王の時代にポーランドは再び統一を回復する。大王は法典を整備し、クラクフに大学を設立し、またユダヤ人を保護して、国力の強化に努めた。しかしカジミェシュには後継者がなく、ピャスト朝は断絶した。

 

 大王の死後、甥でハンガリー王のルドヴィクがポーランド王となり、その娘ヤドヴィガはリトアニア大公ヤギェウォと結婚して、ヤギェウォ王朝が始まった。1410年、ポーランド・リトアニア連合軍はグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を破った。1466年、ポーランドはバルト海への出口を回復し、西ヨーロッパへ大量の穀物や木材を輸出することが可能となった。一方、騎士団国家は衰退し、1525年には世俗化してポーランド国王に臣従するプロイセン公国となった。

 

 16世紀にはポーランドは穀物輸出ブームで経済的に豊かになり、クラクフを中心にルネサンス文化が開花した。天文学者コペルニクスや詩人ヤン・コハノフスキが活躍し、ポーランド語の文学作品が書かれるようになった。カトリックだけでなく、ギリシア正教徒、プロテスタント、ユダヤ人、イスラム教徒といった異なる信条を持つ人々が、比較的平和に共存していたのも、この時代の特色である。穀物ブームでいちばん儲けたのはシュラフタと呼ばれる貴族たちで、彼らは多くの特権を持ち、議会での代表権も独占していた。1572年にヤギェウォ朝が断絶すると、貴族たちは選挙で国王を選ぶようになった。こうして「シュラフタ民主制」と呼ばれる特異な政治文化が発展した(16世紀から分割までを「第一共和制」という)。

 

 この間、ポーランド・リトアニア連合の領土は膨張し続け、バルト海から黒海にまたがる一大複合民族国家となった。国土が東に広がったため16世紀末に首都はワルシャワに移り、17世紀初頭には一時モスクワまで進出した。しかし、17世紀半ばになると穀物ブームは去り、一部の大貴族の手に富と権力は集中し、ウクライナのコサックの反乱やスウェーデンとの戦争によって国土は荒廃し(「大洪水」と呼ばれる)、議会は「リベルム・ヴェト」(全会一致制)の乱用によって機能しなくなった。1683年にヤン三世ソビェスキがウィーンでトルコ軍を破ったことは対外的な名声を高めたが、国内の結束はますます失われていった。この無政府状態を利用して、18世紀前半には周辺の大国がポーランドの内政に干渉し始めた。危機感を抱いた人々はようやく18世紀半ばから改革に着手し、「ヨーロッパ最初の文部省」と呼ばれる「国民教育委員会」(1773年)や近代的な「5月3日憲法」(1791年)のような誇るべき成果を生み出した。しかし、ロシア・プロイセン・オーストリアの三国は改革によってポーランドが国力を回復することを望まず、分割を急いだ。コシチューシコの蜂起(1794年)による抵抗にもかかわらず、三次にわたる分割(1772・93・95年)の結果ポーランドはヨーロッパの地図から姿を消した。

 

 独立を失ったポーランド人はナポレオンに期待をかけた。ドンブロフスキ将軍率いるポーランド軍団は祖国再建の夢を託してイタリアでナポレオン軍に加わって戦った。この時歌われた「ドンブロフスキのマズルカ」が、今日のポーランド国歌の元になっている。しかし、大陸制覇の途上で創られた「ワルシャワ公国」も、ナポレオンの敗北と運命を共にした。1815年のウィーン会議において、4度目のポーランド分割が決定された。

 

 19世紀、ヨーロッパの列強が「国民国家」の建設に奔走している時代に国家の独立を失ったことは、ポーランド人の国民性を考える上で大きな意味をもっている。第1に、国家が存在しない間、民族の存続を支えていたものは、言語(ポーランド語)、宗教(カトリック教会)、芸術(例えばミツキェーヴィチの詩、シェンキェヴィチの小説、ショパンの音楽、マテイコの絵画)などの、広い意味での「文化」であった。分割列強、とくにロシアとプロイセンは検閲を強化し、ポーランド語の使用を制限するなどして同化政策を進めようとしたが、ついにこの「文化」を滅ぼすことはできなかった。第2に、独立を求める闘いが何度も繰り返される中で(1830年「11月蜂起」、1846年「クラクフ蜂起」、1848年「諸国民の春」、1863年「1月蜂起」)、地下活動と蜂起の伝統が形成された。しかし、武力闘争が相次いで敗北に終わると、19世紀後半にはその反動として蜂起よりもまず経済的・社会的土台を着実に築くことを重視する「ポジティヴィズム」と呼ばれる考え方も現れる。第3に、自分の国を失った結果として、また政治的な弾圧を逃れる必要から、多くのポーランド人が西ヨーロッパ諸国やアメリカに移住した。この移民の伝統のおかげで、「ポーランド文化」は、現在のポーランドの国境の中だけにとどまらない、世界的なひろがりを持つものとなった。

 

 待望の独立は、第一次世界大戦とロシア革命の結果、ポーランドを分割していた三帝国が倒れたことによってもたらされた(1918年)。ポーランドは大統領と議会をもつ立憲国家として再出発した(以後、第二次世界大戦勃発までを「第二共和制」という)。大戦間期のポーランドは、現在よりも国土が東に広がっており、ポーランド人以外にユダヤ人、ウクライナ人、ドイツ人等が共存する多民族国家であった。独立の回復は文化面での活性化をもたらし、「スカマンデル」グループの詩人たちや、S.I.ヴィトキェヴィチ(ヴィトカツィ)、作曲家カロル・シマノフスキ等が活躍した。しかし、議会では小党が分立し、各民族間の利害は一致せず、経済的にも分割と大戦の負の遺産を克服するのは容易なことではなかった。1926年にはピウスツキが軍を率いてクーデターを起こし、「サナツィア体制」と呼ばれる一種の独裁政権を敷いた。世界恐慌の打撃からようやく立ち直りかけたのもつかの間、1939年9月1日、ナチス・ドイツはポーランド・ドイツ不可侵条約を破ってポーランドに侵入し第二次世界大戦が勃発、ソ連も独ソ不可侵条約に付された秘密条項に従ってポーランド東部を占領した。こうして独立回復から20年余りでポーランドは再び分割され、地図から消えた。政府首脳は国外に逃れ、ロンドンに亡命政府を樹立し、国内の抵抗運動を指揮した。

 

 第二次世界大戦が旧ポーランド領の住民に及ぼした被害は甚大なものであった。中でも苛酷な運命に直面したのはユダヤ人であった。ゲットーに隔離されたのち、彼らの多くはオシフェンチム(アウシュヴィッツ)やマイダネク等の絶滅収容所に送られて虐殺された。ポーランド人もまた国内で地下闘争を組織し、また国外では連合軍の一員として各地を転戦し、多くの犠牲者を出した。残虐な統治を行なったのはナチスだけではなかった。ソ連占領下の住民も収容所に送られたり、虐殺されたりして、多くの人命が失われた。特に1940年に4、000名を越えるポーランド軍将校がカティンの森で殺害された事件は、その後ソ連政府が真相を隠し続けたこともあって、ポーランド人の対ソ感情を大きく悪化させる一因となった。

 

 ポーランドの解放は、そのソ連が主導権を握って行なわれた。現在のポーランドの国境線は1945年2月のヤルタ会談で決まったものだが、大戦間期の領土と比べると、東方の領土をソ連に譲る代わりに西方でドイツから領土をもらうかたちで、西側にずれている。ナチスがユダヤ人を虐殺し、非ポーランド系住民の比率の高かった東部地域を失ったことで、戦後のポーランド国家は、ほぼ単一宗教・単一民族国家となった。民族問題がなくなった代わり、ポーランドはソ連の勢力圏に入り、東西冷戦の中で、国民の自由な意志に基づいて体制を選択する余地は限られたものとなった。戦後成立した国民統一政府には、当初は亡命政府の指導者も参加していたが、次第に排除されていった。1948年、ポーランド労働者党(共産党)とポーランド社会党左派が合同してポーランド統一労働者党を結成して共産党一党独裁体制が成立、1952年には新憲法が制定されて国名はポーランド人民共和国となった。

 

 その後、1956年、1970年、1980年に労働者の大きな暴動が起き、そのたびに指導者が交替した。とくに1980年の自由労組「連帯」の誕生と翌年末の戒厳令の布告は、ポーランドの社会主義体制を大きく揺るがせるきっかけとなった。1989年2月、政権側は「円卓会議」によって「連帯」との対話を再開し、6月の総選挙の結果、統一労働者党は惨敗、社会主義体制は崩壊し、現在の「第三共和制」が誕生した。

 

 このように1千年余りに及ぶポーランドの歴史は、日本に比べれば時間的に短いとはいえ、たいへんに起伏に富んでいる。今日のポーランドがこのような過去の犠牲と遺産のうえに立っているのだということは、この国で暮らすうえで覚えておいてよいことだと思うし、四方を海に囲まれ、太平洋戦争後の米軍の占領を除けば独立を失ったことのない私たち日本人にとって、この国の人々の経験は実に多くのことを語りかけているのではないだろうか。

 

(小山哲・ワルシャワ大学日本学科客員教授 1994.05)

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