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2018.01.01
11.水谷驍「ポーランドの歴史」
ポーランド外国投資公社(PAIZ)
これは田口研究室が管理するPAIZ紹介のページです
ポーランドの歴史と日本
歴史上ポーランドの最初の君主は、ピャスト朝ミェシコ1世という公である。公は、966年ローマの儀礼にて洗礼を受け、キリスト教国ポーランドを他のヨーロッパ諸国と同列に置いた。ミェシコの公子ボレスワフ一世「武勇王」は、1025年戴冠し、王の称号を得た。王の支配下のポーランドは、当時欧州最強の国家の一つであった。その後の中世ポーランドは、小邦分立の状態が続いたり、モンゴル(蒙古)襲来があったりした、激烈な時代であった。 【日本とポーランド】欧州遠征のモンゴル軍が1241年、レグニツァでポーランド貴族連合軍と交戦したが、元寇(1274/81年)に先立つ 1268年、元からの国書がこの件に触れて「ポーランド」に言及した。ポーランドの名が日本に伝えられた最初とされる。
14世紀末ピャスト王朝は断絶した。しかし、1385年、隣のリトアニア王国と合同、王位にはヴワディスワフ・ヤギェウォが就いた。これを起点に空前絶後の同君連合大王国が形成されることになる。(ヤギェウォ王朝:1386-1572年)。一時期、ポーランドの支配はドニエプル川のはるか東に、北はバルト海、南は黒海並びにアドリア海に及んだ。1410年、ポーランド-リトワニア連合軍はグリュンヴァルドとタンネンベルグの間において、ドイツ十字軍を壊滅せしめた。この戦は中世欧州最大規模のものであった。ヤギェウォ王朝時代は、ポーランドの歴史を通して最も輝かしい時代であり、「黄金の世紀」と呼ばれ、経済的にも文化的にも繁栄を謳歌した。コペルニクスが地動説を唱えたのもこのころである(『天体の回転について』:1543年)。
14世紀末から、シュラフタと呼ばれる中小の貴族層が支配の実権を握り、とくに16世紀からは「シュラフタ民主主義」と呼ばれる独自の民主主義政体が発展した。そのころから、ポーランドは他文化に対し欧州で最も寛容な国であり、宗教的、政治的理由で他国にて迫害にあった人々の避難所でもあった。(このころユダヤ人が多く東欧に流入した。) 16世紀後半ヤギェウォ王朝が断絶した後、王座は選挙制となった。このころのポーランドの武力は名声高く、ポーランド軍はモスクワを占領し(1610-1612)、また国王ヤン・ソビエスキ率いる大軍はウィーン包囲のトルコ軍を破り、トルコのくびきから西欧全体を救う功績を挙げた(1683)。
【日本とポーランド】1642年、イエズス会宣教師ヴォイチェフ・メンチンスキがフィリピンから来日。日本を訪れたこの最初のポーランド人は逆さ吊りにされて果てた。
亡国:3国分割(1772-95年)
17世紀に入って、シュラフタが没落して大貴族による寡頭支配が成立、この大貴族たちが対立・抗争を繰り返して国内は無政府状態に陥った。東からは力をつけてきたロシアが、西からはプロイセンが台頭し、南からはハプスブルク帝国が機を窺っていた。こうして、18世紀末、ポーランドはロシア、プロイセン、ハプスブルク帝国の周辺3大国による分割の憂き目にあい、ヨーロッパの地図からポーランドの名前が消えた。
【日本とポーランド】淋しき里にいでたれば/ここはいずこと尋ねしに/聞くも哀れやその昔/亡ぼされたるポーランド--『ポーランド懐古』。明治26年(1893年)、シベリア単騎行の日本軍人、福島安正中佐に捧げた落合直文作詞の軍歌の一節。
分割の時代
それ以降、独立の回復を求めて何度かの蜂起が試みらた。19世紀で最大のものは1830~31年の「11月蜂起」と1863~64年の「1月蜂起」である。一連の蜂起の敗北後、三国による占領ならびに同化政策のもとで、民族性を維持するための地道な闘いが続いた。知識人を中心としたこの闘いは、社会活動や農民教育、文学運動などで大きな成果をあげた。ノーベル賞作家シェンキェヴィチの小説『クォヴァディス』(1895~96年)はその地道な時代の代表作である。
【日本とポーランド】名作『クォヴァディス』は、高山樗牛の絶賛を得て日本でも注目され、著者がノーベル文学賞を受賞した(1905年)こともあって、早くも1908年(明治41年)に一応の「全訳」が出版され、その後もたびたび翻訳されている。そのころポーランドでも日本への関心が深まり、日本文学や浮世絵など紹介された。
独立の回復:1918年
第一次世界大戦後、独立回復のチャンスがめぐってきた。ポーランドが独立するのは、最終的に分割されてから123年目である。ドイツに拘束されていたピウスツキは、1918年11月10日、ワルシャワに凱旋、独立ポーランドの国家最高司令官に任命された。1920~1921年、革命後のソビエトロシアと軍事衝突が発生した(ポーランド・ソビエト戦争)。戦争はポーランド軍の勝利に終わり、「ワルシャワ郊外の戦闘」と称される戦いは、世界の運命を変えた十数の戦闘の一つに数えられる。結局、リガ条約によりポーランドは東方領土を獲得した。他方、ソ連国内で展開された大粛清の一環として、ポーランド共産党は「スパイ集団」として1938年8月、正式にコミンテルンにより解党され、在留の指導者のほとんど全員の消息が途絶えた。以後、ポーランド共産党の名はついに復活しない。
【日本とポーランド】ユゼフ・ピウスツキは、日露戦争中の1904年夏、反ロシア決起の武器援助を求めて来日した。ピウスツキのロシア皇帝暗殺未遂事件に連座してサハリンに流刑となった兄ブロニスワフは、ここでアイヌ研究に献身、日露戦争前後の一時期、日本に滞在して二葉亭四迷らと親交を結んだ。第一次大戦後、シベリア流刑ポーランド人の孤児たちを新興ポーランドへの引き揚げに努力していたポーランド人ボランティアの要請により、日本側は赤十字と政府が協力し、数百人のポーランド孤児の祖国復帰を実現した。
重なる戦争の被害にもめげず、第二次大戦勃発に至るまでの二十年間、若い国家は分割の後遺症を癒しつつ、復興に全力を投じた。軽工業以外の工業が皆無の状況を克服し、ポーランドは短期間で欧州でも最高の経済成長を誇り、軍事的にも強国となった。グラブスキ蔵相による貨幣改革は著名であり、また、グディニア港の建設も一大壮挙であった。
第二次世界大戦
1939年8月23日に締結の独ソ不可侵条約の秘密議定書には、ポーランド分割に関する密約が交わされた。9月1日、ナチス・ドイツ軍が宣戦布告なしにポーランドへ侵攻、第二次世界大戦が始まった。同、9月17日ソ連軍がポーランドに侵入、国土東半分はソ連に併合された。
【日本とポーランド】1930年代に入って以降、ソ連に敵対し、ドイツとの同盟を外交政策の基軸に据えていた日本にとって、ポーランド侵略と第二次世界大戦に道を開いた1939年8月の独ソ不可侵条約はまったく予想外の事件であった。当時の平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」の一言を残して総辞職。
第二次世界大戦とポーランド
西側からナチス・ドイツに、東側からソ連に攻め込まれたポーランドの艱難は筆舌に尽くし難い。「カティンの森」ではスターリンの指令により、。一万数千のポーランド将校、警官およびび役人が、秘密裏にNKVD(内務人民委員部)の手で処刑された。同様の凶行はハリコフとミェドノイェでもペレストロイカ後に判明。いわゆるホロコーストの結果、アウシュヴィツだけでも百万人以上のポーランド国民が虐殺された。人口の22%、600万人あまりという戦争犠牲者、全滅に近いワルシャワの破壊等はその一端に過ぎない。
【日本とポーランド】ドイツのポーランド侵攻直前まで日本は独ポ間の危機回避に努めたが、果たせず。日米開戦直後の1941年12月11日、ポーランドのロンドン亡命政府は日本に宣戦布告、形式的にせよ両国は交戦国となった。他方、水面下での日本・ポーランド間の諜報協力は続行された。大戦初期、駐カウナス(リトワニア)領事杉原千畝は、本省の不同意を無視して、数千のユダヤ系ポーランド市民に通過ビザを発効、多くの人命を救った。軍事面の協力がその背後にある。
戦後ポーランドの発足
「ヤルタ協定」がソ連の東欧支配を黙認した結果、巨大な犠牲を払った戦勝国の地位から逆転、新たなポーランドの悲劇が始まる。ソ連に併合された東方領土は戻らず、代わりに北部および西部で旧ドイツ領が割譲されて、ポーランドは全体として約200キロ西へ移動した。
共産主義下のポーランド
終戦前夜の1944年、早くもソ連はNKVDを中心に対ポーランド戦後工作を開始したが、戦後の政権はその手先である共産党の主導となる。1944年夏、ワルシャワ蜂起で苦闘した世界最大規模の地下組織「国内軍」系の勢力は、反ソ的として徹底的に弾圧された。1948年12月、労働党と社会党のいわゆる「社共合同」で結成された「統一労働者党」の名の共産党支配が確立、その後は、計画経済の導入、農業の集団化、ソ連一辺倒の外交政策、警察権力の強化、イデオロギー的締め付け等の体制固めが進行した。しかし、消長を伴いつつも政権への抵抗は続いた。戦後東欧諸国のなかで、ポーランドほど繰り返し国民の異議申し立てが体制を揺るがした国はない。
ソ連でのスターリン批判、その後の「雪どけ」は1956年6月のポズナン事件で爆発し、自由化・民主化の要求が成果を挙げた。「右翼的民族主義偏向」で48年に党から追放されたゴムウカはこの波に乗り、同年10月、フルシチョフらのワルシャワ乗り込みの緊張下、政権復帰を果たし、農業集団化の解消などの改革を通じ、脱スターリン化を進め、熱狂をもって迎えられた。
【日本とポーランド】日本とポーランドの国交回復に関する協定に基づく国交修復は、1957年秋以降である。戦後の復興をめざす日本では、フランシスコ会でポーランド人のゼノ・ジェブロフスキ修道士が戦争孤児や貧民街における救済活動に挺身した。
ゴムウカ体制はやがて硬直化し、カトリック教会との対立、民主勢力への弾圧、検閲の強化が進んだ。1968年、首都ワルシャワの学生・知識人が抗議に立ち(3月事件)、次いで1970年、北部の工業都市グダンスクその他の労働者が大規模なストライキ闘争を展開すると、ゴムウカは退陣を迫られ、ギエレク政権が登場した(12月事件)。ギエレクは、イデオロギーを棚上げして経済の高度成長に努め、国民生活の改善を図った。成功するかに見えた新政策も、西側世界の石油危機の直撃を受け、70年代後半には破産、76年、またも労働者の大規模な抗議行動が起こる(6月事件)。この機に誕生した「労働者擁護委員会KOR」などの指導下に反体制運動は徐々に組織化されて広がり、無策の共産政権は半身不随の症状を深めた。
【日本とポーランド】1978年、通商航海条約(80年発効)、科学技術協力協定(78年発効)、文化、教育交流取極(78年発効)
独立自治労働組合「連帯」の登場:1980年
1980年夏、グダンスクのレーニン造船所などで始まった食料値上げ抗議の全国ストに立った労働者は、独立自治労働組合「連帯」の結成を勝ち取った(グダンスク協定)。独立自治とは、共産党=政府の支配を受けないという意味である。これは、ソ連型共産主義の根本原理の否定であった。労働者の大半が年末までに「連帯」に加盟、その網の目はさらに大学教授、教師、芸術家、医師、ジャーナリスト、職人、農民、学生にまで拡大していった。1981年9月には一千万人に及ぶ組合員が「連帯」に加わり、ポーランド社会全体が党支配の及ばない構造に組織され、その勢いを前に政権はたじたじとなった。
【日本とポーランド】「連帯」運動は全世界の注視を集めた。日本も例外でなく、労働組合組織の招きでワレサ委員長の来日が実現(1981年5月)、列島に湧く「ワレサ・フィーバー」にワレサ委員長は「ポーランドを第2の日本にしたい」と応じた。民主政権の初代首相、マゾヴィエツキも同行、また通訳として随行のリプシツはのち註日大使、同じく梅田芳穂は日本人ながら大会綱領委員会などで活躍した。 80年、日・ポ間に二重課税防止条約(82年発効)
戒厳令:1981年12月
共産党政権は崩壊の危機に直面、ソ連の軍事介入が危惧された。1981年秋から党・政府・軍の実権を握っていたヤルゼルスキ将軍は12月13日、戒厳令を布告、軍事政権は多数の活動家を「抑留」するなど「連帯」の弾圧に乗り出す。
【日本とポーランド】戒厳令布告直後、「連帯」に賛同する女性有志らが「ゼノ修道士記念ポーランド人を助ける会」を組織し、3千5百万円以上の義援をカトリック教会などを通しポーランドに送った。また「ポーランド資料センター」が発足、布告直前から「ポーランド月報」(102号まで)を発行(91年7月まで)。
社会主義体制の崩壊:1989年
軍事政権は「連帯」運動の解体に成功せず、地下の抵抗闘争が、却って政権を孤立に追い込む。1988年の春から夏、ふたたび値上げ抗議の大規模なストライキ闘争が展開されると、ヤルゼルスキ政権は無力をさらけた。「連帯」は復権を獲得、翌89年春の円卓会議において「自由選挙」が政権と「連帯」間に合意を見た。選挙では「連帯」勢力が圧勝し、ここにポーランドの共産党政権は最終的に崩壊する。つづいてほかの東欧諸国、そしてソ連でも共産主義体制は崩壊した。
【日本とポーランド】1987年1月中曽根総理訪ポ、87年6月ヤルゼルスキ国家評議会議長訪日
議会制民主主義と市場経済をめざして
中東欧民主化の先陣を切ったポーランドは、以後、議会制民主主義と市場経済体制の確立に全力をあげる。2度の大統領選挙と3度の総選挙を経て政権の担い手はワレサ大統領/「連帯」勢力からクファシニェフスキ大統領/民主左翼連合・農民党へと替わった。議会制民主主義と市場経済体制の確立という基本路線の変更はなかった。
【日本とポーランド】1990年1月、海部首相が新体制のポーランドを訪問、マゾヴィェツキ首相らと会談。 1994年12月、ワレサ大統領が来日。村山首相はポーランドの改革支援と経済協力の強化を約束した。 1994年、航空協定(96年発効)、外交公用旅券保有者の相互査証免除取決め(94年発効)、91年6月ビエレツキ首相訪日、高円宮訪問。ワイダ監督の寄付、日本民間の援助によりクラクフに「日本文化技術センター」設立(94年11月)
(水谷驍)